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第10回総会基調
 

 第1号議案 情勢  

 
■ 私たち障害者のおかれている状況
 まず、私たち障害者のおかれている現状をふりかえってみます。全国でみれば障害者総数は324.5万人(01年)、人口比2.8%となっています。県でみれば、障害手帳所持者数は6万人(97年)、人口比3.9%となっています。その内の約5割が、当センター会員にも多い肢体不自由です。
 そして身体障害者療護施設について言えば、01年の全国の入所者数は23,386人で、全障害者の内の1.3%となります。県内で言えば、98年の定員が350人で、1%となっています。
 療護施設は大抵、地代の安さなどを理由として、町で遊びたくても行けない山奥などに建設されています。閉じられた環境の中で、イジメや暴力事件が日常茶飯事となっていることは広く知られていますし、私たちも過去5回の施設交流会で明らかにしてきました。たいてい療護施設の中では、施設が介護スケジュールから食事内容、部屋割りまで決めています。金銭管理や健康管理まで、当人に知らすことなく施設が代行しています。その結果、「結婚したい」「地域で生きていきたい」、そう願う多くの在施設障害者の思いとは裏腹に、入所者が地域自立生活に踏み出す気力と力を養う機会は日々奪われ続けているのです。さらに、入浴時の異性介護が常態化しています。障害者をモノとして扱うことで成立するこの状況は、在施設障害者から性の尊厳を奪い続けると共に、逆に現代社会のゆがんだ性意識を障害者にももたらしています。
 他方、在宅介護の実態は依然ほとんどが家族介護にとどまっています。例えば山口市の、ヘルパー派遣時間は最重度の障害者に対しても1日当たり約2.3時間にすぎません。残りの21.7時間は家族介護となります。県内でも多くの障害者・家族が、将来の介護不安をまず訴える根拠はここにあります。だからこそ療護施設のひどい実態は知られているにもかかわらず、入所待機者が多いという状況が続いているのです。親が高齢化する中、介護が困難となったため障害者殺し事件もしばしば起きています。

 また障害者差別、隔離政策の再生産として、分離教育の固定化と精神障害者の隔離強化が図られています。
 03年度国家予算では、養護学校だけへの看護士派遣に約2億円が概算要求されました。山口県では先取り的に、山大付属養護学校だけでPTや看護士などの学内研修会を行っています。医療体制に不安があるなら養護学校に行け、という新たな分離教育攻撃です。
 昨年国会に、心神喪失者医療観察法案が上程されました。この法案は、犯罪を犯した精神障害者には最適な医療が必要だ、との論理でいつまでも隔離できるとするものです。この法案以前の問題として、精神病院に「措置入院」されている精神障害者の25%、839人が20年以上の長期入院なのです。精神障害者の隔離道具である、33万床もの病床には世界的にも批判が高まっていますが、昨年12月9日に発表された精神医療総合計画最終案では、精神科病床数の削減をうたった当初案が「動向を見る」などに差し替わり、隔離政策の継続が暗黙のものとなっています。
 また、当センターが「アルゴ」の新家屋を求めて様々な不動産を訪れた際、多くの大家が障害者が住むと聞くなり入居を拒否してきましたように、今なお多くの健常者は、障害者を一人の人間として尊重して対応しない差別態度を持っています。障害者差別社会の維持・再生産が日常的にはかられているのです。

 戦後日本が長年かけて築きあげてきたものが、このような障害者差別社会なのでした。

■ 戦後日本社会の形成
 私たちを取り巻いている戦後の情勢を、ふりかえってみます。

 45年8月、アジア太平洋戦争は終結しました。この戦争は、日本の侵略地とされたアジアで2,000万人が殺戮されると共に、国内でも空襲や原爆などにより310万人が死傷するという大きな傷跡を残しました。他方、それまでアジア侵略を推進させ、侵略先での植民地経営で莫大な利潤を産み出した日本資本も、植民地を全て失うと共に、敗戦国という地位におかれ国際政治上大きなダメージを負ったのでした。戦後日本帝国主義は、このような状態からスタートするのでした。
 当時の世界情勢は冷戦を特徴としました。それは、以前のブロック経済などにみられた日米欧列強同士のむき出しの対立に代わり、反共を課題として帝国主義同士の一定の協調を生み出しました。この協調の前提には、アメリカが飛び抜けて強大な政治経済軍事力を保持していたこともありました。経済的な協調としてはIMFやGATTなどによる自由貿易体制が整備され、軍事的な協調としては日米安保やNATOによる反共軍事同盟が結ばれました。
 このような世界状況下、日本は日米安保による軽武装政策と、その分だけ経済成長に向けた徹底的な政策を採ってきました。輸出産業の育成がねらわれ、高度経済成長期を経る中で日本は自動車などの大量輸出による貿易黒字国となっていきました。

 この経済成長の秘密には、公害を垂れ流し続けたこともあります。アジアの戦争被害に対する補償を日本企業のアジア進出にすり替えたこともあります。しかし最大の秘密は、世界的にも例がないほど働かされ続ける労働者を大量につくり出してきたことでした。家に仕事を持ち帰ることを余儀なくされ、サービス残業が当然とされ、単身赴任や出張も当たり前のように求められる。これら過酷な条件を労働者が飲まざるをえないのは、国家政策とされてきた貧困な公的福祉と、大企業ほど比較的に充実した企業内福祉、そして労働運動への徹底的な弾圧でした。生き続けていくためには労働者は、資本に従順になるしかない状況にされていったのでした。
 公的福祉の貧困さを社会的に承認させ続けていくために、福祉を受けることを恥だとする意識が固定化され、また新たに植え付けられていきました。「人の世話になってはいけない」という文句は、私たち障害者の自立に敵対する言葉としてしばしば突きつけられましたが、その言葉は私たち障害者だけにむけられたものではありませんでした。この意識を後押ししたものが、公的福祉のみじめなまでの貧困さでした。

 この結果、日本は巨大な貿易輸出国となりました。日本・ドイツの経済復興との中、相対的にアメリカは、資本主義世界体制の維持のための負担もあって、その力を弱め続けました。そして71年にはニクソンショックでそれまでの資本主義経済体制は崩壊し、85年にはプラザ合意で大幅なドル安政策を採るほどにその力を喪失しました。大幅なドル安=円高は、貿易輸出国である日本にとって大ダメージとなりました。
 日本資本はこの危機への対策として、より労働者をこき使うこと、労賃がより安いアジア諸国へ工場などを移転すること、国内の新たな市場を創ることに手をつけました。
 より労働者をこき使うには、より福祉を受けることを恥とするよう、福祉がさらに切り捨てられることになりました。国内の新たな市場を創るためには、公的なサービスを民営化することが開始されました。中曽根臨調から始まり今の小泉改革につながる、いわゆる新自由主義政策です。
 労賃がよりやすいアジア諸国へ工場などを移転するためには、日本を戦争ができる国とすることが求められました。資本からしたら、移転するなら安い労賃で安定して資本活動ができる独裁政権国が最適となります。そのため経済界からも、独裁政権が倒れないように、少なくとも日本資本を守るため軍事介入できる軍隊が求められだしました。今や自衛隊は海外で軍事展開できる装備を持っています。派兵実績もPKOやアフガン戦争で積み重ねられています。全ての労働者市民を戦争に協力させるために有事法も国会で審議されています。しかし日本が今協力しているアフガン戦争では、かの地の障害者は空爆で死に、戦争による経済破壊のため薬・食料・水・家屋を失われ、死ぬことを余儀なくされているのです。

■ 新自由主義政策と「対テロ」戦争が障害者にもたらすもの
 新自由主義政策と「対テロ」戦争に突き進む小泉改革は、これから私たち障害者にどのように降りかかってくるのでしょうか。

 来年度から導入される支援費制度とは、福祉事業所を選ぶのが、それまで行政だったものが障害当事者に代わるということです。障害者の自己決定権は確かに拡張されたのですが、全市町村の20%にホームヘルプ業者が無いことから想像できるように、地方では選択できるだけの事業所は無いのです。
 これだけヘルパー事業所が少ないにもかかわらず、03年度概算要求でのヘルパー派遣事業の国家予算は280億円にすぎません。例えば先日、国内の反対を押し切ってアフガン戦争に派遣された自衛隊のイージス艦は一隻1,400億円です。また利権のために全国で膨大な高速道路が建設されていますが、280億円とはその建設費5km分にすぎないほど少額なのです。明らかに、資本と軍事優先、福祉切り捨て政策が問題なのです。
 それどころか厚労省は、「予算をパンクさせるわけにはいかない」とヘルパー派遣時間に上限を設けようとしていたのです。これまで制度上はヘルパー派遣時間に上限はありませんでした。個々の障害者の状態によって介護の必要量は違うのですから、これは当然です。しかし厚労省は支援費制度導入と併せて、身体障害者では1日4〜5時間を上限にしようとしたのです。
 また片方では、「市町村障害者生活支援事業」と「障害児(者)地域療育等支援事業」の補助金が来年度から打ち切られます。これら事業は、障害者が福祉サービスを利用する際に、障害者の自立をサポートするための助言機関として行政自身が設立したものでした。支援費制度となることで、このような活動が広く重要となってきたおりにわざわざ廃止しているのです。
 さらに、支援費制度になることで、悪質な施設からは入居者が引っ越していき淘汰されるという風評もありますが、膨大な待機者が存在する中、自由に施設間を引っ越すことはありえません。現に山口市も、市内の施設には山口市民を優先的に入居させる姿勢を明らかにしています。それどころか、支援費制度では入所も3年更新の契約となるので、地域に受け皿が無かろうが、比較的障害が軽度だからと施設から追い出される可能性も出てきています。
 支援費制度の狙いは、あくまで福祉切り捨てです。03年度概算要求で言えば、ヘルパー派遣やデイサービスは、施設への予算の1/5である569億円ですまされています。小泉改革のもと、福祉予算の削減が強く求められている中、施設から家族介護へと障害者を誘導する制度、家族介護を少しだけ充実させる制度、それが支援費制度なのです。

 目を転じて、障害者の生活全般をみると福祉切り捨ての傾向はより鮮明に浮かび上がります。
 来年度から、年金額と生活保護費は0.9%下がります。年金については、制度自体を変更し、さらに大胆に切り下げることを、生活保護についても05年度の法変更を国は検討しています。年金と生活保護で生活している自立生活障害者は、深刻な生活破壊攻撃にさらされているのです。
 さらに、資本家の団体である日経連は、福祉予算の確保をうたい文句にしつつ消費税の16%までの引き上げと、その税収で自分たち企業への減税を要求しています。この日経連の提案は、与党内で好意的に受け止められていることに、最大限の警戒を払う必要があります。消費税増税は、低所得層が多い私たち障害者の生活には大打撃となりますし、片方ではその増税が福祉増進のためだと宣伝されることで労働者市民と私たち障害者がますます分断させられていくのです。極めて悪辣な攻撃です。
 小泉改革と「対テロ」戦争の中、労働者市民のみならず障害者も含めて、広範かつ深刻な福祉切り捨てが横行されています。救済されるのは資本家だけです。支援費制度のみかけに騙されず、福祉切り捨て、障害者差別政策に反対していきましょう。

■ 障害者差別社会を打ち破るための運動提起
 障害者差別社会の中、私たち障害者がどのような運動をつくりだしてきたかをふり返ってみます。

 70年代に入り障害当事者運動が始まるまで、障害者運動については親や医者などの運動とされていました。障害に応じた措置を求める「発達保証」というスローガンのもと、養護学校や施設の増設が要求され、障害者差別の再生産に寄与していたのです。
 これに反発して障害当事者の運動が生まれたのです。母親による障害児殺害への減刑運動に抗議する中、重度障害当時者による運動は社会的にも存在感を増すという、障害者解放にむけ大きな前進をかちとったのです。養護学校義務化阻止闘争や赤堀闘争では、障害者も地域社会で生きていくことを求めていることを広く世間に示すと共に、障害者が社会参加し、健常者と共闘したという画期的地平を築いてきました。
 他方、障害者の中でさえも、重度障害者はより劣等な存在とされるほど極度の差別社会がある中、障害者の中では障害者以外の全てを敵とする運動になりがちでした。健常者は自分たちの手足としてしかみれず、また介護を頼めない障害者は、自己主張できない劣等な障害者とされ、障害者の中の分断が放置されました。障害者のやりたいことの中身は検証されることなく、その実現のために「差別糾弾」が乱発され矮小化されてしまいました。障害者解放の中身が深まらない中、障害者階層の団結も、労働者・市民・学生・被差別大衆などとの連帯も、発展は踏みとどまりました。その結果83年からの国際障害者年10カ年計画の「ノーマライゼーション」「完全参加と平等」というスローガンによる、福祉制度の整備や、障害者の権利擁護、障害者の生活改善が前進する中、逆に障害者解放運動は課題を見失い混乱し力を失ってきました。

 障害者解放運動の低迷に危機感を抱いた私たちは、92年に「やまぐち障害者解放センター」を結成しました。私たちは赤堀闘争の地平を継承し、あらゆる障害者・健常者と共に障害者解放運動の復権をかけて立ち上がったのです。
 運動理念として、私たちは4つの柱をあげてきました。第一の柱には、障害者解放をかけて「差別糾弾」の原則を貫くことがあげました。第二の柱には、障害者が解放されていくために必要となる制度は行政から闘いとるスタイルの確立を確認しました。第三の柱にはあらゆる障害者との共闘が、第四の柱には労働者・市民・学生・被差別大衆との共闘を訴えています。全ての障害者と共に立ち上がるという精神は、サマーキャンプやグループホーム交渉を、在施設障害者と共に取り組むことで具体化してきました。健常者をも運動のパートナーとするという精神は、健常者をも会員とし、日常的な健常者との共同闘争を模索する専従介護者の創設、介護者と毎月介護者会議を開催していくことを通して具体化してきました。

 資本により社会全体にかけられている社会再編、福祉切り捨てと軍事化に対抗し、障害者が解放された社会を築いていくためには、障害別に分けられた障害者運動ではなく、あらゆる障害者・健常者と取り組む全国を揺るがす力が必要なのです。そのためには当然、現在社会のゆがんだ価値観を拒絶する、障害者解放運動の中身も求められています。
 この障害者差別社会をうち破る力をっている、4つの柱の具体化を目指してがんばりましょう。あらゆる障害者との団結をつくり出すため、サマーキャンプを成功させましょう。あらゆる障害者が地域生活を営むための援助施設である「アルゴ」の新たな家屋をかちとり、センター運動を共に担っている専従介護者の安定化のために専従費の行政補助を、障害者と健常者の立ち上がりのもと行政交渉でかちとりましょう。
 

 第2号議案 活動報告・活動方針  

 
 今期私たちは、第4回総会から一貫した方針である2点の重要課題を、障害者の自立解放のための具体的な取り組みとして設定してきました。
 一つは、障害者を隔離抑圧するものである施設の実質的な解体でした。施設の実質的解体とセットのものとして、在施設障害者の受け皿となるべきグループホームを、私たちの手で建設していくことを、もう一つの課題としてきました。
 また、4本柱の具体化として反戦運動を位置づけてきました。

■ グループホーム運動
 今期は、行政交渉における最大の山場となりました。その理由は、来年度から施行される支援費制度導入とあわせて、市と県が新たな福祉計画を策定することになっていたからです。行政援助をかちとるためには、福祉計画に「アルゴ」のことをもりこませる必要があったからです。
 私たちがこの10年来かけて築き上げてきた「アルゴ」の意義は、03年2月の行政交渉において全て表現されました。以下、事務局通信での報告記事を抜粋します。

 2月4日、身体障害者の集団生活の場と専従費の行政補助を求める第6回市交渉を行いました。
 この交渉は、翌々日の市の新福祉計画策定懇話会直前に、再度私たちの声を出すため設定しました。
 午後2時から4時まで、13人参加のもと、山口市役所議会会議室にて行われました。
 始めに「アルゴ」入居者の藤井さんが、共に住む障害者の叱咤激励の中、「このままじゃダメだ」と寝たきりから脱したことを報告しました。
 続けて在施設障害者が、「アルゴ」の仲間が話しを聞いてくれたので施設に文句を言えるようになったなど、障害者同士のつながりの意義を語りました。最近障害手帳を取得した仲間は、地域に住む障害者がいたから相談でき、手帳を申請する戸惑いが整理できたと語りました。
 民間賃貸で「アルゴ」の新家屋を探した障害者は、物件の大家さんに会ったら、障害者だとすぐ断られた悔しい経験を語りました。
 介護に入っている地域の学生から、分離教育の中、障害者と親しくなる自信が持てずにいたが、介護に入る中で障害者と健常者が共に生きれる確信を持てたと報告されました。また、障害者が集団だから介護も集団となり、相談しながら介護できたなど、続々と報告が続きました。市の職員も身を乗りだして聞きいっていました。
 最後に専従介護者のことが障害者から語られました。話しがすれ違いがちな障害者同士の会話を整理するなど、障害者同士の団結を促進していることが報告されました。
 熱のこもった当事者からの発言に、市の職員が「検討します」で終わらせようとしたことに、山口市議員の藤村さんが、「要望がある、と計画に記載しないことには何も進まない」と追求され、交渉は終わりました。
 この交渉を受けて、翌々日の懇話会で、身障者の集団生活の制度化を検討する、と計画に記載される成果を生みました。
 この勝利的地平の上に、障害者の自立拠点「アルゴ」への行政援助をかちとりましょう。今後もご支援ご協力お願いします。

 今期、「アルゴ」の行政援助を求める山口市との交渉は、02年5月10日、8月21日、03年2月4日と取り組んできました。また、福祉計画をつくる公開会議である懇話会に、02年9月7日(山口市)、11月7日(山口県)、2月6日(山口市)、と開催されるたびに参加し、策定委員に私たちの意見を伝え発表してもらいました。
 また、行政交渉、懇話会を効果的にするために、特に02年夏には各制度の徹底的な研究を行いました。グループホーム、自立支援事業、福祉ホーム、NPO法人化、公営住宅法などについて資料を取り寄せ検討しました。検討を緻密なものとするため、5回にわたり事務局員が行政を訪れ、また日常的に事務局がメールや電話などで行政と連絡をとってきました。結果、既存のどの制度も「アルゴ」の意義を維持・発展させるのに不適当であると判断し、モデル事業として要望する方針を7月幹事会において確定しました。
 行政交渉、懇話会を効果的なものとするために、「アルゴ」の意義を説明するリーフレットも作成しました。リーフレットを山口市・県の福祉計画全策定委員に送付することで、「アルゴ」に対する策定委員の理解をかちとる成果も生み出してきました。
 これら集中的な取り組みの成果として、来年度から施行される山口市の福祉計画において、「アルゴ」の意義を認める文言と、「アルゴ」への行政援助の検討が盛り込まれました。来年度も引き続き、障害者の自立解放の拠点の建設を実現するために、具体的な要望として「アルゴ」への行政援助をあらゆるかたちを通して求めていきましょう。

■ 施設糾弾闘争
 昨年1月20日の幹事会で、Kさんから糾弾闘争を開始したいとの意向が示されました。本人の生存さえ危ぶまれるほどの、施設によるイジメの報告を受けて、早急に対応することを幹事一同で確認しました。施設の実質的解体の取り組みとして位置づけ、連日の行動を事務局を中心として準備しました。
 幹事会の決定を受け、1週間で施設への質問状を作成しました。同月27日には質問状をKさんと検討し、29日には園長にKさんと共に質問状を手渡しました。その後3週間にわたり毎日のように、センターの障害者と健常者で園まで訪問し、Kさんから状況を聞き、また激励してきました。この連日の取り組みは、専従2人体制があって実現できたことを確認したいと思います。
 また、「アルゴ」に来ている介護者に、ビラも使いながら糾弾闘争の状況を伝え、共に行動に参加することと、Kさんが施設から出てきた際の介護体制をつくりあげる協力を訴えました。
 糾弾闘争自体は、残念なことに2月15日にKさんが屈服されるかたちで終結してしまいました。しかしよびかけに応え、多くの障害者と健常者がKさんの糾弾闘争を理解し、支えようとする体制がつくれたという成果を確認したいと思います。
 今後も施設の実質的解体の取り組みとして、施設入居者を先頭とした施設糾弾闘争を位置づけていきたいと思います。

■ 反戦行動
 02年4月国会に、日本の戦争参加に最終的に道を開く有事3法案が上程されました。またアフガン攻撃に続き、秋以降、日米英を中心としたイラク攻撃が切迫しています。この緊迫した状況下、1年通して様々な反戦行動がセンターにもよびかけられました。
 第9回総会で確認しましたように、これら反戦闘争をセンター運動の重要な課題と位置づけ、幹事、健常者に具体的な行動参加をよびかけてきました。引き続き、差別の極限である戦争に反対し、街頭で声を上げていきましょう。
 よびかけてみて気づいたことは私たち障害者の中での、戦争に反対する内容論議が弱いことでした。有事法案の審議がこの春に焦点化することが予想され、イラクに続き朝鮮半島情勢も緊迫の度合いが増す中、論議を充実させましょう。

■ 保安処分とヘルパー派遣時間
 昨年末に国会に、「心神喪失者医療観察法案」が上程されました。精神障害者に対する新たな保安処分といえるこの法案に対して、事務局で即座に抗議ファックスを衆参両議院議長と法務省、厚労省、与野党に送りました。
 今年年頭には、厚労省がヘルパー派遣時間に上限を設けようと試みていることを新聞報道で聞きつけ、直ちに抗議ファックスを厚労省に送りました。
 このように、情勢に対応した迅速な行動を取っていく体制を維持・発展させましょう。

■ 広報活動
 事務局の取り組み状況を会員に報告する「事務局通信」の隔月発行体制を堅持しました。また、広くセンター運動をアピールしていくため、ホームページの開設を実現しました。

■ サマーキャンプ
 この3年間にわたり、毎夏のサマーキャンプは取り組まれませんでした。グループホーム交渉の焦点化の中、いやおうなくこのような方針を採ってきました。
 しかし、サマーキャンプを中止し続ける中で、在施設障害者とのつながりは薄くなりがちになりました。またサマーキャンプ抜きでは、健常者の密な関係づくりも難しい状況にあります。グループホーム交渉が、福祉計画策定によりある程度落ち着いたのを受け、施設内外を貫く障害者の闘いを発展させていくために、今年はぜひサマーキャンプを復活したいと思います。
 

 施設委員会 活動総括・活動案  

 
■ 施設委員会そのものがセンター運動で果たすべき位置は何だったのか
 施設委員会の仕事の一つとして、施設の障害者との問題意識の共有化と、方針の一致といってよい。
 解放センターの総路線として「自立解放」「差別糾弾」があるが、自立解放の戦略として、施設の実質的解体と、受け皿としてのグループホーム建設運動があった。そのうちのグループホームも射程に入れた施設の障害者の組織化をするための内容作りが委員会に問われた。

 当委員会ではこの7年間キャンプや施設交流会を健常者とともに作り上げたという点においては、評価できる。全障連は、会員は障害者だけであった。障害者解放運動は、もちろん障害者の手で行われるべき事業であるが、障害者の特殊性から、健常者の存在なしには運動は進まない実態とともに、障害者解放という中身自体が、健常者をも差別社会から解き放つ可能性をもつ闘いであることを、初めて実質的に証明したものである。それは同時に、障害者の独自性の発揮を阻害しないということを踏まえたかかわりが、連帯する健常者に要求された。
 このような意味で、現在、委員会に健常者や被爆二世がいることで、より広い見地からの会議が進められると考えている。施設の障害者一人一人の分析、かかわり方、その施設の特徴などを正確に分析するまでにはいたっていないため、必ずしも施設との連携がうまく言っているとは言えない。これは、委員会メンバーが施設に通い続けるという基本的なことができていないことが原因であろう。特に具体的な施設へのかかわりを創造しきれず、話し合っている間に時間がたってしまうことが多くあったように思われる。
 ただ10年間の中で、昨年から今年にかけて、施設に対するKさんの差別糾弾闘争が初めて施設内部の障害者の告発による闘争として組まれたことは、格段の前進と見ておきたい。各施設において、施設の中での闘争は、それほど多く報告されていない。90年代以降、全障連の施設小委員会の解体もあり、施設内部からの告発糾弾闘争が先細ってきた。その中にあって、地方でも施設への闘いができるという確信は持てた。具体的には、昨年1月20日の幹事会でKさん本人の口から糾弾闘争を開始したいとの発言があった。このとき、1週間のうちに質問状を製作しその場でKさんと施設当局に手渡すという方針を確定した。27日には質問状の読み合わせと検討し、29日には園長に玲子さん本人から直接手渡した。その後2週間の間、センターの障害者とセンターに結集した健常者が交代交代で安否を確認しに行った。このことは施設委員会が機能を果たしたことを証明したことになった。
 また、グループホーム建設に向けた行政への要求闘争には、施設の障害者が多数参加し、自分達の拠点を自分たちで作るというものとして開始されたことは、画期的である。10年かかって得た勝利は、ここにこそあるのだ。サマーキャンプ、施設交流会を継続してやることにより、このことは実現したものと確信している。

■ 具体的な活動の総括

1.施設の糾弾闘争が障害者解放運動に何を残したか

 上で書いたように施設糾弾闘争が私たち解放センターの結成以来初めての施設内闘争となった。私たちは、地域・施設を貫いた運動としてつくろうとしてきた。ようやく施設内の差別事件に対し不十分ではあれ、本人を先頭に闘えたことは歴史的前進として確認したい。
 この闘争の終結の仕方は、2月15日に、Kさんへの外出禁止や、虐待がないようにする確認を求めて、園長に文章を渡そうとした。Kさんの「センターと園が仲良くしてください。今回のことは全部私の責任です。」という発言が出て、これが終結宣言となった。まだ園とセンターとの確認会にもいたらないうちに、自分の責任だといってしまうことは、事実をはっきりさせず、自分が間違っていたことを認めたことになる。このことがKさんには理解されていなかったようである。
 またこのとき初めて分かったのであるが、項目のひとつのワープロの件は、本人の思い込みだったことである。また、いろんな意味で、事実確認ができないままで終わっているため、真実がなかなか分からないが、どうも後から話してみると、施設に対してと、センターに対してと、言うことがかなり違っていたようである。かなりセンターに対しては大げさに言っている感も否めない。施設の障害者によくあるものでもあるようだ。いかに自分のそのときの欲求を満たせるかを優先するから、現場現場で立場をくるくる代えている。特にそれは介護者に対して現れる。
 自分自身の本音がどこにあるのか、自分自身で分からなくなっているのである。まずこの本音をつかむこと、その上で糾弾闘争を始めることが、この闘争において最も重要な反省点である。

 施設委員会としては、Kさんのぶれについては、施設の特殊な事情があると考えている。特に重度障害者の場合、何をするにしても他人が行うことが多くなる。特に施設にいれば、施設の職員側の都合によって、かなり左右される。その中で自分のやってもらいたいことをいかに貫徹するか、特に生理現象や命にかかわるものについて、追われていく状態になる。そのとき介護者の顔色を伺い、その介護者にある程度意見を合わせることで実現するしかない。多くの施設の障害者は、このようなことを何十年とやっている人が多いのだ。Kさんも例外ではない。それを我々施設委員会がすばやく見抜ききれなかったことが今回のこのような結果の原因であろう。何しろ、このような闘いは、当センターにとっては初めてである。
 いろんな評価の仕方はあろうが、障害者解放運動を進める立場から見るならば、障害者、健常者がともに同じ問題を解決するために力をあわせたことが大きな評価点である。
 上でも書いたように、障害者解放運動の担い手は、障害者はもちろんのこと、健常者もそうである。健常者もこの闘争を通じて、現在の社会の仕組みを知ることとなり、同じ社会に住んでいる以上、障害者解放に責任を持つ必要があるということを自覚できたと思う。

 私たち解放センターは、結成大会のとき、「赤堀闘争を引き継ぐ」と明言した。これは何を意味するかといえば、今回の施設糾弾闘争のように、健常者も障害者も問題を共有化し、解決に向けてお互いが持っている力を出し尽くして闘うことなのだ。赤堀闘争では、三者共闘(障害者、精神障害者、健常者の共同闘争)といっても闘争現場での共闘であったように思う。当時はこのことが画期的な地平だった。
 私たちはこれをさらに発展させるものとして、日常の生活現場から問題を共有化しようとしてきたのである。その結果として、専従はもちろん、アルゴの日常介護に来ているセンターの介護者が、施設糾弾闘争に決起し、一翼を担った。また、Kさんを連れて帰るときも介護体制を維持しきれたのである。
 園に対する方針としては、Kさんの自立問題と、新たな障害者の会員を獲得し、会議建設を推進できるよう、キャンプ参加者などを中心に積極的に話をしていきたいと考えている。

2.K園の会員脱会について

 せっかくグループホーム運動に結集し、複数の会員となっていたK園の会員については、昨年の4月幹事会で議論されたとおり、幹事である人の勝手な行動が会員の反発を呼んだ。幹事をやっている障害者と、追及した障害者が両方とも脱会する結果となった。この二人はお互いのコミュニケ−ションをとることをせず、「言ってもダメいね」と相手に対して固定した見方をし、お互いを変革しようという試みが足りないように思われる。また、会議で物事を決める習慣が乏しかったのも事実である。幹事は会員のまとめ役でなければならないことも理解されていないようであった。回りの会員も幹事として責任を持ってもらおうという努力が足りなかった。この背景には障害者解放運動上、大きな問題が横たわっている。それは、障害者の自立をめぐる論争が一つと、センター的には、園に十分人を派遣できていない、人員不足の問題がある。1つ目については幹事になっている人の勝手なふるまいである。これは、自分がしたいことができることが「自立」だという、障害者の自立観の違いから来ている。この自立観は、70年代に生まれ、今も根強く続く、障害者が陥りやすい自立観である。施設糾弾闘争のところでも書いたが、施設の障害者は、劣悪な環境により要求を満たされにくい状態にあるから、施設の障害者もなおさら、こういう考え方になりやすい。施設に入っているから、自分はしたいことができない、ないしは障害者だからできない、という間違った認識がまだまだ解放運動を進めていく側にも大きく残っているといえる。決して障害者であるからやりたいことができないのではなく、現在の社会体制であるからできないのである。けっして健常者であるからやりたいことがやれているわけではないのである。職種にしても、就きたい仕事に就けているわけではない。このことが理解されていない。私たち解放センターは、障害者差別のある社会と闘っているのであり、単純にやりたいことをやる、即時的欲求を満たすことを目指しているのではない。2つ目に、1のことを話をするようなK園の中で会議を建設するための要員の派遣が、センターの事務局、当委員会にメンバーが不足しており、このようなK園内における会議が建設できていないことが挙げられる。人員の派遣ができていないことについては、率直に反省しなければならないし、今後どのようにして人を派遣するかや、会議を定期的に行うかを追求する必要がある。K園の今後の方針は、こうした人員の派遣と、対等に発言できる会議の定期化(月1回)が課題となる。このことを踏まえ、来年度のK園に対する方針としたい。
 

 施設委員会 富田の総括  
 
※この報告は、2000年にセンター会員全体の祝福を受けて、重度障害者同士の結婚をした富田さんが、結婚からこれまでの間に2人の間で話してきたことを報告するため、本人が書いたものです。
 報告されている事実については、結婚相手のKさんからも誤りが多々指摘されています。しかし重度障害者が文書を書くということの困難さを考えて、HPでも掲載することとしました。(事務局)

■ 玲子さんがアルゴに来たとき話したこと

○ 刻み食の話(Kさんより)
 Oさんが、普通食を食べられないから、刻み食を食べている。
 結末:なし

○ ワープロを打たせてもらえない話(Kさんより)
 ワープロをおいてなかったので怒った。
 結末:Kさんのうそ

○ Mさんとの確執(Kさんより)
 MさんとKさんが同じ部屋になった(寮母さんが手がかかるから、Mさんと同じ部屋に、Kさんにも手をかけるから)MさんとKさんは、お互い知り合いだったので。ひとつ覚えているのは、一度事務所で会ったことがある。それだけの関係しかない。性格が合わない。
 結末:富田さん批判で盛り上がる。今は、冷戦状態のように見える(富田さんより)

○ 家の話(富田さんより)
 部屋をどういう風にしたらいいか聞こうとした。
 結末:Kさんは、部屋は、大きいほうがいいんじゃないかと言った(双方、同じ部屋で住むことを主張)家は市営住宅がいいと思っている(両方)。

○ 自立することへの気持ちのふらつき(Oさんより)
 Kさんは、介護者によって、いろいろな意見を言うから、勝手にしゃべれん。人の目を気にするから、悪い意味のふらつきがある。Kさんは、そういうクセをつけている人である。
 結末:富田が指摘して、Kさんが気づいた。

○ ラブホテルの話(富田さんより)
 僕が、セックスをやりたいから、Kさんに聞いたらいいよと答えて、Wさんが、介護に入ると言った。Wさんは、もうちょっと早く言ってくれたら、できるのにと、Wさんの意見を言いました。障害者同士のセックス介護はできると言っていました。
 結末:結局、Oさんとかに、反対されて、もうちょっと時期が早すぎると言うのだった。それで、しなかった。

○ 障害者夫婦のビデオを見た(富田さんより)
 見たときに、介護者を高校生がやっている場面とか、介護者を探している風景がありました。女性障害者の人が、道で介護を見つけて、100mほどあちこちに行っていた。
 結末:玲子さんがいいなあと言った。

○ トイレをお互いに見てない(Kさんより)
 Kさんが富田に見させないと言いました。富田は、お互い見せたほうがいいと(見たいなと)思った。
 結末:富田の顔にタオルをかぶせている。Kさんの近くで富田がトイレをする機会はまだない。ぜひ見せたいと思っている(小のみ)

○ 病院にいった(Oさんより)
 あんの循環器内科に行った。富田が、2回目のリハビリだったのにもかかわらず、なぜKさんがリハビリに行くのかが、分からない。病院に行ったときに、勝手に、ついてきた。
 結末:結局リハビリをやって帰った。先生が言っていた。「立派な歌でした。」

○ 食事の買い物に行った(Oさんと富田さんより)
 食事作りから、自立訓練をしてもらうために、やるって、Kさんが言った。美味しいものを作るため、富田とKさんとMさんで、まるきに買い物に行った。途中風が強かった。雨が降ってきた。買い物中に店が停電した。うなぎのお寿司と汁を作ろうとした。メニューはKさんが決めた。
 結末:美味しかった。うなぎが安かった。またやろうねとKさんが言った。

○ コンサートに行こう(Kさんより)
 年に1回ずつ3回行った。チケットを4枚ほど買ったから僕に買えと命令してきた。それで4枚富田が買った。買って、お金を半分出すから、行けとKさんが言いました。2枚分を、Kさんが払った。4人分1万6千円です。そのうち、半分を出せとKさんが言った。
 結末:結局富田が払った。1万6千円のうち、半分を出さなくては後で怖かった。出してとKさんが言いました。(ps)コンサートは面白くなかった。全部同じような歌を延々と聞かされると困る。

※富田のほうから、Kさんに誘いたいこととしては、お風呂に一緒に入りたい。
あとは家で、お話し。
あとは、スポーツ観戦・・・

○ 未来のこと
 私は、Kさんの自立を家の中を、考えたいので、Kさんと一緒になります。家は、市営住宅3DKを住みたい。いつでも、誰が来ても、笑える家にしたいです。
 私は、家の中をきれいにします
 プライベートルームを作りたい。障害を持っていても、将来子どもを作りたい。無理だと思います。将来、子どもをもらうという形で、3人で暮らしたいです。

○ 今年は、家を出るということについて
 Kさんと2人、アルゴで暮らしたい。
 早ければ、来年度中。
 4月の中旬にアルゴで一人暮らしを始める。
 その後、Kさんとアルゴで暮らしたい。
 Kさんのお父さんと直接会って話をする。ちゃんとした家があれば。自立にむけたKさんのアルゴで自立してもらうために。施設でおることが果たしていいのか。アルゴでは私たち4人。障害者介護を電話で探しています。風呂介護と食事介護。介護者の年齢も下は18歳、上は70代。

○ Kさんの誕生日にKさんのお父さんと話す。
 Kさんと話し合っています。
 私は、事務所で一人暮らしを4月15日(火)にはじめる。
 昼ごはんは、アルゴの居間で食べる。
 夕ご飯は、事務所で食べる。
 そして、3月6日に、Kさんのお父さんと、話す。
 前期だんだん体を慣らす。アルゴの共同財政は、冨田が引き続き管理をしていきます。
 後期Kさんを呼んで、いきたいと思って、います。
 Kさんの自立をしていこうと思います。
 1年間ほど、話をしたい。
 親父をぎゃふんと言わせる。
 Kさんが安心して暮らせるように、部屋をきれいにする。園の中で。
 

 「雑草」編集委員会のこれからの課題
 
 これまで2年ちかくにわたり、機関誌の発行ができなかったのは、私が当初、自分の部屋で開いていた歌会に気の合った人たちを集めて歌の批評などをやっていました。しかし、それが終わった後に編集会議をすることになっていたため、公私混同もはなはだしくなり、たとえば編集作業を丸投げしたり、会議の日時を意図的に伝えなかったりするなど、私のこのような差別的で傲慢な態度によって、人間関係を壊してしまいその結果編集会議をもつことができなくしてしまったことです。これは、事務局メンバーの意見や忠告に耳を貸そうとしなかったばかりか、委員会の仕事を放置したまま、私が恋愛問題に走ってしまったことが原因なのです。
 それは最初、編集委員を選ぶ段階で事務局をとうさないまま、私の一存で自分の気に入った人を会議に参加させたり、気に入らないことや思うようにならないことがあれば、一方的に関係をきったことなどして、私の恋愛問題を会議の場に持ち込んでしまったことが、混乱を深める結果を招いた原因です。それは自分の要求だけを先行させ、相手を気遣うような配慮に欠けていたことにほかなりません。このことについて事務局内で様々な批判や論議がなされ、私も少しずつですが総括を進めてきました。私たちはあらゆる差別と闘うことはもちろんですが、今まで障害者として持っていた差別に対する誤った認識を質していき、自分の差別性に目をむけ切開していくとともに、ひとのこころの痛みを推し測っていくこともたいせつなことだと思いました。
 これからも「雑草」の発行を続けていき、新たな会員の獲得に貢献していきたいと思います。それを実現させるため、以前のような囲い込みをするのではなく、ポスターをアルゴの居間に貼りだし編集委員を公募することにしました。
 私が編集委員会の再建に取組んでこれたのは、周囲の人たちの激励や協力を得てきたからです、パソコンを習得するまでいろいろアドバイスを受け、編集委員募集のポスターの作成を手伝ってもらったり、数人の学生に対するはたらきかけなど、試行錯誤をしてきたところです。 
 言うまでもなく「雑草」は、障害者をめぐる様々な問題を取り上げ、それが今日の社会情勢とどのような関連性があるのかを検証し、一定の解放センターとしての見解を出していく場なのです。もちろん、読者からの意見や感想を聞く、投稿欄を設けることも念頭に入れておく必要があるだろうと思います。それとともに、施設障害者からの寄稿も掲載して、私たちとの関係作りを推し進め、自立に向けたたたかいを支えていけるような拠点作りのため、これを活用していかなければなりません。
 今まで33回「雑草」を出してこれたわけですが、最初は、自分でレジュメを切って会議をする経験に乏しく、長時間会議に集中することが体力的にむりがあるなど、私の指導性に不充分な点があったことは事実です。しかし、これまて゛「雑草」を出して来れたのは、お互いの問題意識や悩みについて話してきたこと、また、そうすることで信頼関係を築いてこれたからです。このことは、鳥井君や大庭さんが成長してきた(はじめは意見を聞いてもなかなか返事が返ってこなかったが、最近では活発に意見を言ってもらえるようになった)ことでも明らかだと思います。これからは障害者差別の問題について、編集会議の中でもっと論議を積み重ね、障害者と健全者がともに解放されていけるよう努力していく必要があります。そして、解放センターの方針(差別糾弾の原則を貫いて闘うこと)を鮮明にしていけるような内容作りをしていかなければなりません。

 編集委員会が「雑草」に載せる記事を、テーマごとに障害者や介護者に原稿を書いてもらうように依頼し、それぞれの立場から様々な問題について書いてもらいました。
 たとえば、有事3法案の国会上程やアメリカ軍のアフガン空爆に反対する記事、障害者が戦争反対の声を上げる立場として取組んだ8・6集会の記事、戦争と差別の問題として今国会で審議されている心身喪失者医療観察法案、いわゆる保安処分に反対する記事、介護に入っての感想や、介護者会議の報告などを載せて来たところです。
 最後に、「雑草」の年間発行計画を立てること、これまでどうり月一回のペースで編集会議をやっていきたいと思います。
 

 介護委員会総括案
 
 2001〜2002年度まで、介護委員会の障害者として、専従の思いをなかなかわかろうとしていなかったと思います。センター運動に対して生き生きとした話ができないので、このようなことから日頃のコミュニケーションを介護者にも専従に対してにも、不振不満になっていきました。このようのなことを、無くそうと日頃から介護者にコミュニケーションをとれないことを、理由にして運動の話や自分達の生い立ちを、話すことなく1日が過ぎていくことを、介護委員会はそのことを論議してから、障害者と介護に対しても、このことを自分達がかわって行くようにしないと介護者や専従達にも、唱えることがでれきません。
 この間は、障害者が夜遅くまで寝れないとゆうことについて介護者から、遅くまで起きてることに対して介護委員会としては、このことを議論してきましたが、なかなか変わることができないので、時間を決めたのに対して反発が有り障害者がなかなか決めることができませんでした。でも障害者が地域で生きていくためには、地域の中ではルールが必要です。介護者から言われてやっと寝るようにしても今は自分から早くねるようになったそうです。
 介護者との関係づくりについて
 障害者が旅行に行くことについて、障害者は介護者に呼びかけるさいに、運動に関係ない人を呼びかけていました。なぜなのかを障害者自身が、問いかけてみないから、運動に関係ない人に対して呼びかけているのではないなのでは、介護委員会ではこういったことを問題にしています。自分は納得がれきなかったでも皆から、批判されることについて反発がありました。なぜ旅行ぐらいで批判されるとは思ていませんでした。
 介護者一人の親について話を聞くと、僕のお父さんは自衛隊員で、今では戦争でアフガンへの攻撃やイラク攻撃が始まりましたが、お父さんはもう戦争には、いきたくないといっていたそうです。私達が、アフガンや今そこに起きてる戦争に反対することが、だいじと思うので福岡の集会に、きませんかと誘いました。このようなことを地道に運動をして広げています。
 このようなことを日常から、話をしていきたいと思います。
 行政交渉にしても、前もって介護者に交渉などのことをこまかく話していくとが、だいじだと思います。
 今でこういった話をどんどんはなしかけていきましょう。
 
 介護委員会の今期の動き
 
01年10月
 介護者不足のため、募集に向けた行動に出る。
02年1〜3月
 専従であった三野君が辞めるに際して、「何をしてきたか?」を総括として話し合った。
02年4月
 新歓 それまではただビラを撒いていただけだった中、あまり人が来なくなったのを反省して、どういうふうにやればいいのかを考えるようになった。時間に追われるかたちで、適当にピクニックをやったが、4人しか来なかった。
 結果的には新歓は低迷に終わってしまった。
02年3月
 三輪君が専従になるに際して、フルタイム(8時〜18時)専従2人体制でグループホーム交渉の前進。施設訪問の実現をかちとる。専従費の保障ため、貯金をとり崩すことを決める。
02年6月
 介護者に対して、反戦集会への参加を大石氏が呼びかけ成功を勝ちとる。
02年7月
 「専従の総括を今からでもやる」ということで、麻田氏が三野君に手紙を送る。「話しにくかった」というのなら、まず話し合うことからという考え方で意見の合意がされる。
02年10月
 寝る介2人体制をどう実現させるかについての検討に入る。
 当初、馬渡氏から、「障害者が負担している介護料の増額を求めよう」と主張。 それの実現性は薄いのでは、と指摘される。それまでの介護シフトを再検討し、介護料をどうにか準備する。寝る介2人体制では、どうやって寝る介の人に休んでもらうかを検討中。

 以上のような事柄を主な内容で、介護委員会として運動を展開してきましたが、障害者の主体性の薄さや、責任感の欠落はいまだに克服できていません。
 このことについては、委員会としてきっちりと総括しなければならないと考えます。
 その一方では、2000年の5月からとりくんできた「グループホーム交渉」を事務局のメンバーをはじめ、県内各地の障害者の仲間や専従をはじめとする多数の介護者と共にたたかい、今年の2月の交渉において「山口市新障害者プラン」に重度障害者の集団生活の『意義』を記載させることを行政との間で確約させるところまでこぎつけたことは、大きな成果だと思います。
 今後は障害者や、介護者とのコミュニケーションを広げながら、介護運動を展開させ、発展させていくことを来期の方針としていきたいと考えます。
 

 第3号議案 会計報告・会計方針
 
※事務局判断で、掲載しません。
 
 第4号議案 人事  

 
※事務局判断で、掲載しません。