| アピール一覧 |
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第10回総会基調 |
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第1号議案 情勢 | |
また障害者差別、隔離政策の再生産として、分離教育の固定化と精神障害者の隔離強化が図られています。 戦後日本が長年かけて築きあげてきたものが、このような障害者差別社会なのでした。 ■ 戦後日本社会の形成 45年8月、アジア太平洋戦争は終結しました。この戦争は、日本の侵略地とされたアジアで2,000万人が殺戮されると共に、国内でも空襲や原爆などにより310万人が死傷するという大きな傷跡を残しました。他方、それまでアジア侵略を推進させ、侵略先での植民地経営で莫大な利潤を産み出した日本資本も、植民地を全て失うと共に、敗戦国という地位におかれ国際政治上大きなダメージを負ったのでした。戦後日本帝国主義は、このような状態からスタートするのでした。 この経済成長の秘密には、公害を垂れ流し続けたこともあります。アジアの戦争被害に対する補償を日本企業のアジア進出にすり替えたこともあります。しかし最大の秘密は、世界的にも例がないほど働かされ続ける労働者を大量につくり出してきたことでした。家に仕事を持ち帰ることを余儀なくされ、サービス残業が当然とされ、単身赴任や出張も当たり前のように求められる。これら過酷な条件を労働者が飲まざるをえないのは、国家政策とされてきた貧困な公的福祉と、大企業ほど比較的に充実した企業内福祉、そして労働運動への徹底的な弾圧でした。生き続けていくためには労働者は、資本に従順になるしかない状況にされていったのでした。 この結果、日本は巨大な貿易輸出国となりました。日本・ドイツの経済復興との中、相対的にアメリカは、資本主義世界体制の維持のための負担もあって、その力を弱め続けました。そして71年にはニクソンショックでそれまでの資本主義経済体制は崩壊し、85年にはプラザ合意で大幅なドル安政策を採るほどにその力を喪失しました。大幅なドル安=円高は、貿易輸出国である日本にとって大ダメージとなりました。 ■ 新自由主義政策と「対テロ」戦争が障害者にもたらすもの 来年度から導入される支援費制度とは、福祉事業所を選ぶのが、それまで行政だったものが障害当事者に代わるということです。障害者の自己決定権は確かに拡張されたのですが、全市町村の20%にホームヘルプ業者が無いことから想像できるように、地方では選択できるだけの事業所は無いのです。 目を転じて、障害者の生活全般をみると福祉切り捨ての傾向はより鮮明に浮かび上がります。 ■ 障害者差別社会を打ち破るための運動提起 70年代に入り障害当事者運動が始まるまで、障害者運動については親や医者などの運動とされていました。障害に応じた措置を求める「発達保証」というスローガンのもと、養護学校や施設の増設が要求され、障害者差別の再生産に寄与していたのです。 障害者解放運動の低迷に危機感を抱いた私たちは、92年に「やまぐち障害者解放センター」を結成しました。私たちは赤堀闘争の地平を継承し、あらゆる障害者・健常者と共に障害者解放運動の復権をかけて立ち上がったのです。 資本により社会全体にかけられている社会再編、福祉切り捨てと軍事化に対抗し、障害者が解放された社会を築いていくためには、障害別に分けられた障害者運動ではなく、あらゆる障害者・健常者と取り組む全国を揺るがす力が必要なのです。そのためには当然、現在社会のゆがんだ価値観を拒絶する、障害者解放運動の中身も求められています。 |
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第2号議案 活動報告・活動方針 | |
■ グループホーム運動 2月4日、身体障害者の集団生活の場と専従費の行政補助を求める第6回市交渉を行いました。 今期、「アルゴ」の行政援助を求める山口市との交渉は、02年5月10日、8月21日、03年2月4日と取り組んできました。また、福祉計画をつくる公開会議である懇話会に、02年9月7日(山口市)、11月7日(山口県)、2月6日(山口市)、と開催されるたびに参加し、策定委員に私たちの意見を伝え発表してもらいました。 ■ 施設糾弾闘争 ■ 反戦行動 ■ 保安処分とヘルパー派遣時間 ■ 広報活動 ■ サマーキャンプ |
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施設委員会 活動総括・活動案 | |
当委員会ではこの7年間キャンプや施設交流会を健常者とともに作り上げたという点においては、評価できる。全障連は、会員は障害者だけであった。障害者解放運動は、もちろん障害者の手で行われるべき事業であるが、障害者の特殊性から、健常者の存在なしには運動は進まない実態とともに、障害者解放という中身自体が、健常者をも差別社会から解き放つ可能性をもつ闘いであることを、初めて実質的に証明したものである。それは同時に、障害者の独自性の発揮を阻害しないということを踏まえたかかわりが、連帯する健常者に要求された。 ■ 具体的な活動の総括 1.施設の糾弾闘争が障害者解放運動に何を残したか 上で書いたように施設糾弾闘争が私たち解放センターの結成以来初めての施設内闘争となった。私たちは、地域・施設を貫いた運動としてつくろうとしてきた。ようやく施設内の差別事件に対し不十分ではあれ、本人を先頭に闘えたことは歴史的前進として確認したい。 施設委員会としては、Kさんのぶれについては、施設の特殊な事情があると考えている。特に重度障害者の場合、何をするにしても他人が行うことが多くなる。特に施設にいれば、施設の職員側の都合によって、かなり左右される。その中で自分のやってもらいたいことをいかに貫徹するか、特に生理現象や命にかかわるものについて、追われていく状態になる。そのとき介護者の顔色を伺い、その介護者にある程度意見を合わせることで実現するしかない。多くの施設の障害者は、このようなことを何十年とやっている人が多いのだ。Kさんも例外ではない。それを我々施設委員会がすばやく見抜ききれなかったことが今回のこのような結果の原因であろう。何しろ、このような闘いは、当センターにとっては初めてである。 私たち解放センターは、結成大会のとき、「赤堀闘争を引き継ぐ」と明言した。これは何を意味するかといえば、今回の施設糾弾闘争のように、健常者も障害者も問題を共有化し、解決に向けてお互いが持っている力を出し尽くして闘うことなのだ。赤堀闘争では、三者共闘(障害者、精神障害者、健常者の共同闘争)といっても闘争現場での共闘であったように思う。当時はこのことが画期的な地平だった。 2.K園の会員脱会について せっかくグループホーム運動に結集し、複数の会員となっていたK園の会員については、昨年の4月幹事会で議論されたとおり、幹事である人の勝手な行動が会員の反発を呼んだ。幹事をやっている障害者と、追及した障害者が両方とも脱会する結果となった。この二人はお互いのコミュニケ−ションをとることをせず、「言ってもダメいね」と相手に対して固定した見方をし、お互いを変革しようという試みが足りないように思われる。また、会議で物事を決める習慣が乏しかったのも事実である。幹事は会員のまとめ役でなければならないことも理解されていないようであった。回りの会員も幹事として責任を持ってもらおうという努力が足りなかった。この背景には障害者解放運動上、大きな問題が横たわっている。それは、障害者の自立をめぐる論争が一つと、センター的には、園に十分人を派遣できていない、人員不足の問題がある。1つ目については幹事になっている人の勝手なふるまいである。これは、自分がしたいことができることが「自立」だという、障害者の自立観の違いから来ている。この自立観は、70年代に生まれ、今も根強く続く、障害者が陥りやすい自立観である。施設糾弾闘争のところでも書いたが、施設の障害者は、劣悪な環境により要求を満たされにくい状態にあるから、施設の障害者もなおさら、こういう考え方になりやすい。施設に入っているから、自分はしたいことができない、ないしは障害者だからできない、という間違った認識がまだまだ解放運動を進めていく側にも大きく残っているといえる。決して障害者であるからやりたいことができないのではなく、現在の社会体制であるからできないのである。けっして健常者であるからやりたいことがやれているわけではないのである。職種にしても、就きたい仕事に就けているわけではない。このことが理解されていない。私たち解放センターは、障害者差別のある社会と闘っているのであり、単純にやりたいことをやる、即時的欲求を満たすことを目指しているのではない。2つ目に、1のことを話をするようなK園の中で会議を建設するための要員の派遣が、センターの事務局、当委員会にメンバーが不足しており、このようなK園内における会議が建設できていないことが挙げられる。人員の派遣ができていないことについては、率直に反省しなければならないし、今後どのようにして人を派遣するかや、会議を定期的に行うかを追求する必要がある。K園の今後の方針は、こうした人員の派遣と、対等に発言できる会議の定期化(月1回)が課題となる。このことを踏まえ、来年度のK園に対する方針としたい。 |
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施設委員会 富田の総括 | |
※この報告は、2000年にセンター会員全体の祝福を受けて、重度障害者同士の結婚をした富田さんが、結婚からこれまでの間に2人の間で話してきたことを報告するため、本人が書いたものです。 報告されている事実については、結婚相手のKさんからも誤りが多々指摘されています。しかし重度障害者が文書を書くということの困難さを考えて、HPでも掲載することとしました。(事務局) ■ 玲子さんがアルゴに来たとき話したこと ○ 刻み食の話(Kさんより) ○ ワープロを打たせてもらえない話(Kさんより) ○ Mさんとの確執(Kさんより) ○ 家の話(富田さんより) ○ 自立することへの気持ちのふらつき(Oさんより) ○ ラブホテルの話(富田さんより) ○ 障害者夫婦のビデオを見た(富田さんより) ○ トイレをお互いに見てない(Kさんより) ○ 病院にいった(Oさんより) ○ 食事の買い物に行った(Oさんと富田さんより) ○ コンサートに行こう(Kさんより) ※富田のほうから、Kさんに誘いたいこととしては、お風呂に一緒に入りたい。 ○ 未来のこと ○ 今年は、家を出るということについて ○ Kさんの誕生日にKさんのお父さんと話す。 |
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「雑草」編集委員会のこれからの課題 | |
これまで2年ちかくにわたり、機関誌の発行ができなかったのは、私が当初、自分の部屋で開いていた歌会に気の合った人たちを集めて歌の批評などをやっていました。しかし、それが終わった後に編集会議をすることになっていたため、公私混同もはなはだしくなり、たとえば編集作業を丸投げしたり、会議の日時を意図的に伝えなかったりするなど、私のこのような差別的で傲慢な態度によって、人間関係を壊してしまいその結果編集会議をもつことができなくしてしまったことです。これは、事務局メンバーの意見や忠告に耳を貸そうとしなかったばかりか、委員会の仕事を放置したまま、私が恋愛問題に走ってしまったことが原因なのです。 それは最初、編集委員を選ぶ段階で事務局をとうさないまま、私の一存で自分の気に入った人を会議に参加させたり、気に入らないことや思うようにならないことがあれば、一方的に関係をきったことなどして、私の恋愛問題を会議の場に持ち込んでしまったことが、混乱を深める結果を招いた原因です。それは自分の要求だけを先行させ、相手を気遣うような配慮に欠けていたことにほかなりません。このことについて事務局内で様々な批判や論議がなされ、私も少しずつですが総括を進めてきました。私たちはあらゆる差別と闘うことはもちろんですが、今まで障害者として持っていた差別に対する誤った認識を質していき、自分の差別性に目をむけ切開していくとともに、ひとのこころの痛みを推し測っていくこともたいせつなことだと思いました。 これからも「雑草」の発行を続けていき、新たな会員の獲得に貢献していきたいと思います。それを実現させるため、以前のような囲い込みをするのではなく、ポスターをアルゴの居間に貼りだし編集委員を公募することにしました。 私が編集委員会の再建に取組んでこれたのは、周囲の人たちの激励や協力を得てきたからです、パソコンを習得するまでいろいろアドバイスを受け、編集委員募集のポスターの作成を手伝ってもらったり、数人の学生に対するはたらきかけなど、試行錯誤をしてきたところです。 言うまでもなく「雑草」は、障害者をめぐる様々な問題を取り上げ、それが今日の社会情勢とどのような関連性があるのかを検証し、一定の解放センターとしての見解を出していく場なのです。もちろん、読者からの意見や感想を聞く、投稿欄を設けることも念頭に入れておく必要があるだろうと思います。それとともに、施設障害者からの寄稿も掲載して、私たちとの関係作りを推し進め、自立に向けたたたかいを支えていけるような拠点作りのため、これを活用していかなければなりません。 今まで33回「雑草」を出してこれたわけですが、最初は、自分でレジュメを切って会議をする経験に乏しく、長時間会議に集中することが体力的にむりがあるなど、私の指導性に不充分な点があったことは事実です。しかし、これまて゛「雑草」を出して来れたのは、お互いの問題意識や悩みについて話してきたこと、また、そうすることで信頼関係を築いてこれたからです。このことは、鳥井君や大庭さんが成長してきた(はじめは意見を聞いてもなかなか返事が返ってこなかったが、最近では活発に意見を言ってもらえるようになった)ことでも明らかだと思います。これからは障害者差別の問題について、編集会議の中でもっと論議を積み重ね、障害者と健全者がともに解放されていけるよう努力していく必要があります。そして、解放センターの方針(差別糾弾の原則を貫いて闘うこと)を鮮明にしていけるような内容作りをしていかなければなりません。 編集委員会が「雑草」に載せる記事を、テーマごとに障害者や介護者に原稿を書いてもらうように依頼し、それぞれの立場から様々な問題について書いてもらいました。 |
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介護委員会総括案 | |
2001〜2002年度まで、介護委員会の障害者として、専従の思いをなかなかわかろうとしていなかったと思います。センター運動に対して生き生きとした話ができないので、このようなことから日頃のコミュニケーションを介護者にも専従に対してにも、不振不満になっていきました。このようのなことを、無くそうと日頃から介護者にコミュニケーションをとれないことを、理由にして運動の話や自分達の生い立ちを、話すことなく1日が過ぎていくことを、介護委員会はそのことを論議してから、障害者と介護に対しても、このことを自分達がかわって行くようにしないと介護者や専従達にも、唱えることがでれきません。 この間は、障害者が夜遅くまで寝れないとゆうことについて介護者から、遅くまで起きてることに対して介護委員会としては、このことを議論してきましたが、なかなか変わることができないので、時間を決めたのに対して反発が有り障害者がなかなか決めることができませんでした。でも障害者が地域で生きていくためには、地域の中ではルールが必要です。介護者から言われてやっと寝るようにしても今は自分から早くねるようになったそうです。 介護者との関係づくりについて 障害者が旅行に行くことについて、障害者は介護者に呼びかけるさいに、運動に関係ない人を呼びかけていました。なぜなのかを障害者自身が、問いかけてみないから、運動に関係ない人に対して呼びかけているのではないなのでは、介護委員会ではこういったことを問題にしています。自分は納得がれきなかったでも皆から、批判されることについて反発がありました。なぜ旅行ぐらいで批判されるとは思ていませんでした。 介護者一人の親について話を聞くと、僕のお父さんは自衛隊員で、今では戦争でアフガンへの攻撃やイラク攻撃が始まりましたが、お父さんはもう戦争には、いきたくないといっていたそうです。私達が、アフガンや今そこに起きてる戦争に反対することが、だいじと思うので福岡の集会に、きませんかと誘いました。このようなことを地道に運動をして広げています。 このようなことを日常から、話をしていきたいと思います。 行政交渉にしても、前もって介護者に交渉などのことをこまかく話していくとが、だいじだと思います。 今でこういった話をどんどんはなしかけていきましょう。 |
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介護委員会の今期の動き | |
01年10月 介護者不足のため、募集に向けた行動に出る。 02年1〜3月 専従であった三野君が辞めるに際して、「何をしてきたか?」を総括として話し合った。 02年4月 新歓 それまではただビラを撒いていただけだった中、あまり人が来なくなったのを反省して、どういうふうにやればいいのかを考えるようになった。時間に追われるかたちで、適当にピクニックをやったが、4人しか来なかった。 結果的には新歓は低迷に終わってしまった。 02年3月 三輪君が専従になるに際して、フルタイム(8時〜18時)専従2人体制でグループホーム交渉の前進。施設訪問の実現をかちとる。専従費の保障ため、貯金をとり崩すことを決める。 02年6月 介護者に対して、反戦集会への参加を大石氏が呼びかけ成功を勝ちとる。 02年7月 「専従の総括を今からでもやる」ということで、麻田氏が三野君に手紙を送る。「話しにくかった」というのなら、まず話し合うことからという考え方で意見の合意がされる。 02年10月 寝る介2人体制をどう実現させるかについての検討に入る。 当初、馬渡氏から、「障害者が負担している介護料の増額を求めよう」と主張。 それの実現性は薄いのでは、と指摘される。それまでの介護シフトを再検討し、介護料をどうにか準備する。寝る介2人体制では、どうやって寝る介の人に休んでもらうかを検討中。 以上のような事柄を主な内容で、介護委員会として運動を展開してきましたが、障害者の主体性の薄さや、責任感の欠落はいまだに克服できていません。 |
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第3号議案 会計報告・会計方針 | |
※事務局判断で、掲載しません。 |
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第4号議案 人事 | |
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