やまぐち障害者解放センター 第12回総会基調
やまぐち障害者解放センター
第12回総会基調
2005.7.3.
【議題1】情勢
2003年4月、障害者の福祉制度は、措置制度から支援費制度に変わりました。政府はこの制度変更について、「ノーマライゼーションをすすめ、障害者の自己決定を拡大し、障害者と福祉事業所が対等な関係になるものだ」と言っています。しかし、在宅、施設ともにサービスが圧倒的に不足しており、政府がいうように「事業所を自由に選択できる」状態ではありません。この制度を導入するとき、厚労省は、それまで制度上24時間保障となっていたヘルパー派遣時間を、1日4〜5時間に限ろうとしました。これが、支援費制度の本質は福祉切り捨てであることを、表しています。厚労省はこの時、「予算が限られているからだ」と弁明しました。ヘルパー派遣事業の国家予算はわずか280億円です(03年)。今年度は560億円でした。小泉政権があっさりと拠出したイラク軍事占領への協力金1650億円と比較すると、小泉政権の福祉切り捨ての姿勢は鮮明になります。また、支援費制度では、行政が福祉に対して直接の責任を持たなくなります。福祉サービスの確保は原則として障害者個人の責任とされ、国や自治体は「支援費」の助成など、あくまで第三者的なものとなります。
01年の池田小事件をきっかけにして、2002年3月に心神喪失者医療観察法案が国会に出され、障害者が前面に出て繰り返し反対を訴えたにもかかわらず、03年7月、強行成立されました。この法律は、過去に重大犯罪をおこした精神障害者に、「再犯の危険性がある」と、裁判官と医療関係者が言いさえすれば、いつまでも病院に隔離させ続けるというものです。精神障害者は重大な犯罪を繰り返すという差別をあおり、精神障害者を病院に隔離させ続ける差別法であると同時に、犯罪をおこす予測があるというだけで処罰できるとする、いわゆる保安処分を実現する危険な法律です。04年に入っても、地方自治体の財政不足や、地域住民の反対で、新しく精神病院を建てられず、病棟数が足りず、現存の病棟の一部を使うことも、厚労省が認可するなど、本来の法律の内容を反映しづらいものとなっています。それでもなお、医療観察法は、強行し、精神障害者の隔離抹殺をしようとしている。
05年2月10日、国会に「障害者自立支援法案」が提出されました。これは、昨年10月に明らかになった、厚労省の「今後の障害保健福祉政策について(改革のグランドデザイン案)」を法案化したものです。「障害者の基本3法(精神障害者福祉法、知的障害者福祉法、身体障害者福祉法)を統合し、市町村を中心に年齢、障害種別、疾病を超えた一元的な体制を整備する」と厚労省は言います。この法律では、サービス提供に対する利用者負担が、破滅的に重くなります。「福祉サービスについて他制度と均衡する応益的な負担の導入」として、すべての障害者が同じサービスに対して、同額の支払いを強制されます。これまで、障害者が生活の改善など、行政闘争で歴史的にかちとってきた既得権をすべてリセットするものです。東京大田区では、両手足に障害を持つ全身性障害者が、介護者を伴って外出する際の支援費を、一律に1日1時間しか認めず、04年度からすでに運用しています。また、「利用決定システムの透明化」を掲げて、市町村に審査会を設けることになっています。これは、障害者と行政の関係を遮断し、個別交渉の実現を阻止するものです。歴史的な行政糾弾闘争を圧殺するものです。支援費制度は、全額公費ですが、予算を大きく超えたことから、厚労省は介護保険との統合を狙っています。介護保険には以下の問題があります。@利用料に対して、原則1割の自己負担があるA「家事援助行為の不適正事例」により、介助内容が厳しく制限され、草抜きさえも禁止されているB月35万円の利用限度額が設定されているC介助計画の作成が有資格者に限られているD介助者の資格が厳しく制限されているE市町村ごとの保険者の1/4が赤字の中、障害の程度を軽く判定する事例が報告されだしている。という問題があります。支援費制度が、介護保険と、統合されると、障害者に対するサービスは大きく後退します。
このように財政赤字を理由に福祉予算はカットされているに対して銀行の不良債権に対しては7兆円を超える予算を投じています。そして責任者である社長は責任を取らされてはいません。
また障害者に対する差別事件が、依然として続いています。今年4月、宇部のくるみ園で、職員が体を洗わずに浴槽に入ろうとした利用者に対して、暴言を浴びせたり、殴ったり、冷水をかけたりなどの虐待を、7年にわたり、していたことが明らかになりました。04年8月、山口市のマンションで、知的障害者のグループホームを作ろうとしたNPO法人に対して、住民が反対して訴訟を起こしました。05年2月、JR蒲田駅で、電動車いすの障害者が、駅員から介護を拒否される事件が起きました。05年5月、新山口駅で、視覚障害の夫婦が、盲導犬ごと線路に転落する事故が起きました。
福祉切捨てと、差別排外主義を貫くものは、小泉政権の資本家優遇と、戦争国家化です。小泉政権は、03年12月から現在まで、イラクへの自衛隊派兵を続け、次の第7次派兵では、九州の陸上自衛隊がイラクに行くことになっています。日本は、イラク民衆の虐殺に加担しています。この中で、04年10月、香田証生さんが殺され、05年5月、イギリスの民間軍事会社の社員、斎藤昭彦さんが殺されました。05年6月23日には、サマワで、
自衛隊の車列を狙った爆発が起きました。米軍、英軍、自衛隊を、即時撤退させましょう。
現在、米軍再編が行われています。この再編は、米ソ冷戦時代に大量かつ大規模に配備され固定化され張り付いている戦力を、冷戦の終焉、アメリカの経済的財政的再建戦略の下で、大胆に縮小・再編、整理・統合しようとするものです。米軍戦力を、「プレゼンス型」「抑止力型」から「急速展開型」「機動・迅速型」へ転換しようとするものです。中東や中央アジア、北アフリカなど石油・天然資源地帯での「対テロ戦争」に機動的かつ迅速に展開できるように、介入部隊や基地体制を全面的に再編し見直そうというものです。現在、岩国、韓国、沖縄で、新しい米軍基地作りが狙われています。自衛隊は米軍と一体となり、世界中で米軍と同一司令部の下、侵略戦争をするようになります。新・防衛計画大綱(十二月十日、閣議決定)では、アメリカの「ミサイル防衛」(MD)への本格参加、「海外出動」の本来任務化、文民統制の形骸化、「武器輸出三原則の緩和」、自主防衛組織の推進が打ち出されています。また、自衛隊の存在に、憲法を合わせようという、9条の改悪が狙われています。「聖域なき構造改革」をうたう小泉改革のもとで、障害者だけでなく、全労働者市民に対する福祉切捨てが行われています。年金切り下げと生活保護の減額が行われ、医療費の自己負担増が行われ(03年)、児童扶養手当など十種の手当に、物価が下落したときは減額し、物価が上昇したときは据え置く仕組みを導入する特例法案が今年3月、衆院厚生労働委員会で可決されました。
憲法25条には、「健康で文化的な最低限度の生活を国が保障する」と書いてありますが、これを、国ではなく、個人の自己責任にしようという、憲法改悪が狙われています。
福祉切捨て、差別排外主義への対決と、小泉改革・戦争国家化とを結びつけて、3者共闘の地平で闘う事が、今求められています。粘り強く闘われ続ける、保安処分、医療観察法に反対する首都圏の障害者の闘いに応えていきましょう。自立支援法を廃案にする闘いに、全力で取り組んでいきましょう。障害者の自立解放の社会を目指して、より大きく声を上げ、より目に見える運動を作り上げていきましょう。今こそセンターが掲げる4本柱で、闘いましょう。
第2議題 活動総括
事務局が具体的にやってきたことは、以下のことである。
―
退所までの経緯
98年
99年11月
00年4月 結婚を祝う会を開いた。
02年1月
02年2月 センターは、園に対して、
2月27日 センターから、
@ 園は、センターを通して
Aそのことで外出、外泊が制限されないように。
ということを書いた申し入れ書を持っていき、
03年3月
4月 大学での新歓ビラまきに初めて参加した。学生にトイレ介護をしてもらった。
8月 8月4日から6日、広島へ。「アルゴに1泊して帰る。」とうそをついて外出した。お父さんに初めて反旗を翻した。この頃から、
8月
11月 アルゴ内で、
11月 自立についての考え方を、確認した。
@親は関係ない。絶縁していい
A親の同意がないと園を退所できない
B制度で保障されているから退所できるのだ
C自立するのは本人のみができることで周りは口出しすべきでない
D施設を出たら自立である
上の5点ははいずれも違う、と確認した。
04年4月、例年のように新歓で介護者募集のビラまきをした。前年に続いて、
9月に1週間アルゴに外泊した。
11月、4日間アルゴに外泊した。
12月16日、退所に向けて外出した。
12月24日,
お父さんの返事は,「高嶺園に戻ったら話し合う。」というものだった。お父さんはアルゴには来なかった。お父さんがアルゴに来なくても,12月24日に,園の退所の手続きをするつもりだった。1週間,連日FAXを送り,電話をかけた。12月23日,お父さんから「明日,私も園に行く。そこで,話そう。『勝手にしなさい』というつもりだ」という言葉を引き出した。
12月24日,
12月 28日,山口市に転入届けを出した。国民健康保険に入った。支援費の申請をした。1月半ば,福祉課から調査に来て,アルゴの現住人の4人と同量の,週16時間のヘルパー時間が決定した。ヘルパ−の入浴介護を週1回受けることになった。宇部でかかりつけの病院が2つあり,紹介状を書いてもらって,山口市の病院に転院した。
1月11日,年金証書などを持って,生活保護申請した。社会課から「
2月半ば,生活保護が決定した。市の職員がお父さんや弟に調査に行ったとき,「『
★まとめ
90年代初め、
00年ごろ、
センターは、どんな障害者も地域で暮らせるようにしたいと思っている。
事務局の評価
@ 90年代前半の
90年代前半は、事務局もしっかりしておらず、センターにかかわる施設の障害者の諸要求(コンサートや買い物)に出来るだけ応えていた。富田さんの関係者ということもあって回数が他の障害者よりも多かったように記憶している。外出への支援を行った理由としては、施設の閉鎖的な空気から少しでも開かれた中であらゆる社会的な経験をし、自分たちの社会的立場の理解を深める機会として想定した。
A 90年代後半(95年〜)の
95年から、2ヶ月に一度くらい定期的に宿泊し、施設の報告や自立に向けての話し合いをするようになったが、皆が集まって話をする回数は少なく、徐々に宿泊するだけになっていった。
当センターは、この時期、キャンプ以外、独自の企画を持っていなかった。この一大企画であるキャンプを行う際、実行委員の一人として高嶺園から参加する障害者のまとめ役をしてもらうことを確認した。
こちら側の考えとして自立へ向け、自らの仕事に責任を持つことで施設外で生活するときの自信となるよう設定した。実行委員長になってもらえるよう働きかけた(98年)。
98年、実行委員長としてキャンプで健常者、障害者の交流を図ることが出来たと思う。 特に、
「自立をしたい」という言葉は、90年代前半から、聞きはしていたが、具体的に結婚式をあげて一緒に暮らすという方針が本人から出てきた。それに対して、事務局は順番が反対だと諫めたが、「施設から出てくる際の精神的な支えとしたい」という発言がでている。つまり、本人はこの時点で施設からでることをある程度固めていたと事務局では見た。本人のその意思に対して、結婚式は事務局、半年後の祝う会の際には実行委員会を組織し、山口市長から祝いの言葉をもらうなど、解放運動の中で二人が出会い結婚していくという、社会的アピールとして行うことが出来た。この様に、
B 00年以降は、高嶺園退所は、本人たちの(富田さんと
02年1.15幹事会の会議の中で高嶺園の
いつのまにかこの闘争が事実を確認する闘いになり、もう一方の施設からの退所でアプローチが弱くなった感は否めない。また本人の衰弱がひどく、その構えがなかった。それだけでなく、そのまま退所したとしても本人の施設に打ち勝ったという印象を残せず、「施設から逃げてきた」という印象が残り、退所してからの運動(生活も含めて)が自信を持って行うことが出来ないと判断したからである。
その後、当センターが賛同団体として行っている反戦闘争(8・6やAWC)への参加やキャンプの実行委員会としての任務の貫徹を通し、本人の自信へと繋げていくことに重点を置いた。
一方事務局側では、『自立』の定義づけの論議や親子関係の有り方が論議された、03年11.26の会議で
現在、言えるのではあるが、「自立」とは、自分の責任において、他者との平等な関係の中で、自分の人生を決定していくこと。(自己選択、自己決定)
それにかかわる障害(現代資本主義)と闘う。それも、商品(福祉サービスを含む)を消費していくだけではなく、新しい価値観を生産しようとする社会運動である。これが障害者解放運動である。
ここからは
サマーキャンプ
キャンプは、解放センターにとって、大きな行事ですが、私の自立支援としてやったのかどうかわかりません。またサマーキャンプで学んだことは、大きいものがあります。まず、自分の、責任で友達に話し、高嶺園からキャンプに連れて行くことです。最初のころは、なかなか、できなかったので、戸惑い、悩みなどがありました。どうして私がやらなければいけないのかと思ったことも何度かあります。でも、最後のころになると、だんだん慣れてきて、高嶺園の職員まで誘うことができました。2003年のサマーキャンプは、お父さんと園の職員に反対された。そのため行けませんでしたが、友だちが参加してくれました。それも職員は反対しましたが、それを説明して、「大丈夫だよ」ということを、解ってもらって、友だちを出すことができました。それが私にとって、少しは自信になることだったと思います。キャンプを通じて、キャンプが自立の少しの心の支えになったことは事実です。今から思うと、一般参加者も実行委員もやらせてもらいましたが、とても楽しい思い出になっています。これからは、私が、サマーキャンプを解放センターの仲間と、一緒に作って、多くの障害者を参加させたいと思っています。本当に長年ありがとうございました。(終わり)
結婚式
冨田君と結婚したかったので、皆に相談しました。最初は自立してからと大石君たちに言われました。それで冨田君と一緒に、大石君たちを説得しましたが、なかなかとりあってくれません。そのうち私が、自立するときの励みにしたいと言いました。そういうことなら結婚式をしてもいいよと言われましたので、私の両親に挨拶に行きました。行ったところ、冨田君のご両親と冨田君とで私の家に結婚の挨拶に行きました。想像していたけど、私の両親も、冨田君のご両親も猛反対してきました。私はどうしても結婚式をあげたかったので、私の両親に結婚ごっこでいいなら許してくれませんか?と言いました。私の両親はそれなら許すよと、言って結婚式をあげることを許してくれました。私が両親に結婚式ごっこと言ったことで、冨田君が悩んでしまったことを、後で知りました。後で冨田君が怒られましたけども、こうでも言わなければ、そのときの私の両親は結婚式をあげることを許してくれなかったと思います。結婚式を挙げてもいいけど二人で挙げろと言われて、結局、結婚式には私の両親も冨田君のご両親も出席してくれませんでした。1999年11月16日結婚式をあげました。私のほうの出席者は高嶺園の職員二人と友達と友達がやっている託児所の子ども一人、計4人でした。富田君の方は、アルゴの当時の介護者とか、昔の介護者とか、合計30名が祝ってくれました。教会にそれ以上は入れなかったです。私の方の友達と高嶺園の職員から結婚式が終わってから、カラオケBOXに連れて行ってくれました。うれしかったです。6人でいきました。披露宴がなかった代わりに連れて行ってもらいました。アルゴに帰った後、結婚式に呼ばれなかった学生さん集まって、私と冨田君の顔が入ったケーキを作ってくれたり、宴会になりました。私はこんな大勢の人たちが祝ってくれるとは思わなかったです。うれしくって涙が出ました。そのときに私が思ったのはいつか絶対に冨田君と暮らせるようにと思いました。この結婚が本当に高嶺園から退所するときの大きな心の支えになりました。
★ 祝う会について
誰が企画してくれたのか、実行委員なのか聞いていませんが、富田君が、突然高嶺園に来て、「祝う会をするので、アルゴにおいでよ」と言ったので、結婚式に来てくれた高嶺園の職員と、友達と、友達の託児所の預かっている子どもも1人参加してくれて、4人で、当日に行きました。すごく人が多かったのを覚えています。私は、少し、びっくりしました。
山口県内のアルゴの元介護者の人が、来ていたので、冨田君と介護者との絆が強いことが分かり、びっくりしました。私にこういう、絆が作れるかどうなのかわかりません。当時は、なぜ山口県内に、いる人が交通費を自分で払ってまで、参加してくれたのか、よくわかりませんでした。
それでまた、驚いてしまいました。それとアルゴの強いところをはじめて知りました。私の介護をやってくれる人の、渡辺さんがちょっと遅れたので、心配になってしまいましたが、30分後くらいにちゃんと来てくれました。私は、良かったと思いました。祝う会が終わったのが、午後4時でした。それからアルゴに帰ってきて、また宴会が始まりました。私は疲れていたので、早めに休ませてもらいましたが、かなり遅くまでやっていたみたいです。祝う会をしてくれた皆さん、ありがとうございました。
★ 8−6について
最初は、高嶺園に大石君が来て、「8/6に平和集会があるのだけど行かないか、」と言われました。そのときは、新婚旅行ができるので、「喜んで行く」と言いました。新婚旅行が夢だったので、「これで行けるな」と思っていました。7月の終わりころに、アルゴから電話があり、「平和集会のことで話しがある」と、言われました。「何だろう」と思って、来てみると、大石君の部屋に連れて行かれて、「ビデオを見よう」と言われました。そのビデオは、アメリカの枯葉剤の被害の大きさが分かるビデオでした。私は、長崎、広島に、アメリカの飛行機が原爆を持って、落とされたことを、さだまさしのファンなので、知っていました。こんなに被害が大きいとは思っていませんでした。ここでちょっとショックを受けたのを覚えています。それで、これは、新婚旅行ではないのだと、初めて気づきました。アルゴが、こういう活動もしているんだとはじめて知りました。少しびっくりしました。高嶺園に、外出届を提出したところ、「4日間も出るの?親に聞いたの?」と聞かれました。私は、「いいえ」とこたえました。親に聞いてから、「集会のような怖いところに行ったらだめだ」と言われました。私は返答に詰まりました。当時は、「はい」しか言えませんでした。落ちこんでしまったので、寮母さんが、「1泊2日で出られるように、お父さんに言ってあげましょう」と言いました。それで私は、「しめしめ、アルゴに来れば、4日間外出して、広島の集会に行けるだろう」と思っていました。8月5日の日、広島に行きました。大石君、麻田さんと一緒に行きました。いろんな話を聞きましたが、半分以上分かりませんでした。ほとんどの話は聞いていました。ほとんどが、頭の中から消えてしまいました。ただ、原爆資料館に行ったときに、怖かったことを覚えています。5日の夜に、「高嶺園からアルゴに、電話があった」と、アルゴから、大石君に電話がありました。それで、大石君にわけを話しました。大石君は怒っていました。「ごめんね、8・6に行きたかったの。」と言ったら、大石君が許してくれました。大石君が高嶺園に電話をかけました(21時ころ)。ちょうど私のことを理解してくれる寮母さんが夜勤だったので、大石君が話すと、「わかったよ。外泊を書き換えておくね」と言われたそうです。それで、翌朝、8・6に行きました。初めての8・6は、すごかったのと、集会が終わってから、分かれて、平和公園を探検する班と、広島城址に行く班に分かれました。私は初めてで、暑かったので、疲れていたので、平和公園内を見る班として行動しました。公園内で、折鶴が焼かれる事件があったのですが、その場所を案内してもらいました。自分たちが持ってきた折鶴を飾ってもらいました、とてもうれしかったです。夜アルゴに帰ったのが、20時くらいでした。アルゴに帰ってからは。深夜2時まで、大石君と話しました。これからのことなどを話しました。7日の夕方、高嶺園に大石君と一緒に帰りました。
高嶺園では、なにごともなかったように、迎えてもらいました。翌朝、指導員から、質問されました。「どうして外出期間を勝手に変えたのか」と聞かれました。「ええわあね」と応えました。.指導員は笑って、その場を去っていきました。土曜日になり、お父さんがカンカンに怒って来ました。
「親に反抗したのだから、外泊禁止だ」と言って帰りました。「これが、私の自立への思いが強くなった出来事でした。親に反抗するのも初めてでした。2回目の8・6が終わったあと、アルゴへの外出禁止が、出ました、が、母の法事に、私の出席が拒否された。変わりに、恩赦だといって、アルゴへの外出を、許可してくれましたので、もう一度広島へ行くことができましたが、その前に父に、「3泊4日でアルゴに行く、広島の平和集会に参加する」と,はっきりと伝えました。
その日は、高嶺園の夏祭りが重なったので、また、父は、カンカンに怒りました。「お盆に実家には帰らせないぞ、帰らなくて良かったら、好きなようにしなさい」と言いました。私は「帰らないよ」と言って、広島に来ました。前年と同様、被爆2世の方の話は、半分以上分かりませんでしたが、8・6は、経験があったので、あまり疲れませんでした。トイレを気にせずに水分を飲んだり、自分から「木陰に入れてよ」と言えるようになっていたからです。
アルゴに来たことが、役に立ちました。私にとっては、自立支援でした。でも、事務局は、自立支援だと思っていなかったので、私が書きました。アルゴに4日間来た後、また高嶺園に父が来ました。「もうお前は、家には帰れないぞ」と言っていました。「もう面会にも来ないぞ」と言っていました。私は「いいよ、アルゴに行くから」と思わず口に出ました。もう父とはあれからあまり、会っていません。お盆の間は、お盆過ぎにアルゴに1週間外泊しました。とても楽しかったです。8・6のおかげで、強くなった。私は、自分の、気持ちを家族に伝えて、去年の12/24に退所することができました。アルゴの人たちと解放センター会員の方たち、ありがとうございました。いろいろとご迷惑をかけたり、ご心配をおかけしましたが、なんとか、退所して、半年経ちました。これからもがんばっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
グループホーム闘争14年の総括
グループホームの闘争は我々が解放センターを立ち上げる時からセンターの基盤整備として、取り組む課題として基調にも書いてきた。グループホーム闘争の総括をする際 以下の点につき、押さえておいたほうが良いと考える次第である。
A,解放センター設立時の客観的状況と、障害者主体の状況
B,解放センターは、基本的には障害者主体が動かすものではあるが、健常者も会員となっていることから見て、どちらが舵取りをしても、差し支えない。ただし、障害者差別を撤廃する運動であることを重視し、赤堀闘争の3者共闘の地平を正しく理解したものでなければならない。
1, 解放センター設立時の客観的状況と、障害者主体の状況
設立当時の92年の客観的情勢として、ソ連の崩壊による冷戦の終結と、アメリカ帝国主義のグローバリゼーション的な支配が本格化し始める年に当たる。このことは、湾岸戦争に見られるものである。国内においては、自衛隊派兵が強行され、アメリカに追随しつつ、日本帝国主義の権益の防衛を、自衛隊が果たしていく第1歩として踏み出している。
その様な中で、障害者福祉も、国際障害者年10年が終わりに近づき、障害者解放運動も、ますます厳しい状況におかれることが必至であった。この様な状況に対して、あまりにも貧弱な山口の障害者主体の状況を、解放センターの設立によって、点在している障害者活動家の組織的な団結を、半ば強引にだが、作ろうとしたのである。このときの障害者主体の状況は、以下に挙げる特徴を持つ。
a 障害者差別の根源は、資本主義社会にあるとしつつも、対健全者の運動で、健全者に対する無階層の敵視し、介護することのみが解放運動の連帯のあり方、という色合いを残す。
b 障害者主体の問題解決型連合体であり、問題が起きてから、起きた問題に応じた団体を結成し、行政交渉を行うい、問題が解決すれば解散するという特徴を持つ。
このa,bの特徴は、全国的には70年代で終わり、80年代には次の動きになっている。山口の特徴として、反戦を闘う学生や労働者が、数は減りつつも、障害者を支え続けいた。そのような組織を作る動きは全国の先進地域に比べ、山口は10年以上遅くれていた。障害者主体は、80年代後半から、新しい団結形態を模索し始めるが、反戦を闘う学生や労働者に甘え、介護を押し付けながら、70年代のありかたを変えようとしなかった。特に生活部面において、このことを大きく変えようとしなかった。a,bの詳しい特徴については、後に書く。
主体である障害者が混迷していく中、このように反戦を闘う労働者、学生のほうから、解放運動の新しいビジョン(解放センター構想)を提案していくこととなった。障害者の解放運動のあり方を考え直すことを要求してきた。
障害者は求められた自己の変革を健全者の差別と置き換え、自らの在り方を変えようとしなかった。さらに反戦を闘う労働者や学生に甘える行動を続けようとしたのである。結果、健全者を障害者解放運動から離脱させてしまうこととなってしまったのである。このことによってさらに介護者不足を引き起こし、障害者運動の動きが止まってしまった。この介護者不足と障害者自身の変革、解放運動の拠点を一挙に作り出すものとしてグループホームの建設構想が打ち出されたのである。
こうして始まったグループホーム建設運動は、実態作りを先に始める事とし、そこでの経験における蓄積を持って行政の保障へ持ち込むものとして計画された。少数の健全者と数人の障害者によって推し進められることとなった。他数人の障害者は表向き賛成票を投じるが、70年代的『自立』を変革できず、本音ではグループホーム構造を受け入れてはいなかった。彼らは反対する論理的根拠も示すことさえせず、総論に賛成し、各論に反対しグループホームの建設構想は遅々として進まなかった。
a,b両方の山口における障害者主体の特徴がこの問題を引き起こしていた。
bの問題解決型連合体はあくまで連合体であり、一つの組織体としての人格を持たない。あるとすれば『自分の思うところの70年代的『自立』を護る』という点で一致しているのに過ぎない。aは資本主義社会を敵としながらも差別によって歪められた自分をも肯定し、実際には差別とは闘わず自分の要求を満たしてくれない健全者に対し、要求を実現させていく事に終始する。このことを護りたいのであった。実際には差別によって作られた自分とも闘い、その様な自分が社会と闘えていなかったことを認めていなかったのであった。施設での体験をそのまま自分の個性としてしまい、そこからの回復を放棄していた。このことに気が付くのに10年以上もの時間を要してしまったのである。
この様に、行政交渉に入る前の段階の方が時間を要している。また、a,bはたびたび交渉を続けている間も問題となった。
2、グループホーム闘争の歴史的特長
@,障害者の『自立』の考え方の転換
70年代的『自立』は、差別と闘うといいつつも、その実態は、健全者に対する恨みと、甘えの混在した要求実現運動という側面が大きい。@のところでも書いたが、この構造が、障害者を真に社会と闘う存在として形成させていない原因の一つとなっている。これを突破するのが、グループホームの中で作られる、入居者会議である。詳しくは後に述べる。
A具体的な要求項目の整理と、実際の要求
Aでは、それを具体的に行政に要求していくときの文章化、また実体化である。またそれをめぐり、70年代の自立との闘いと、実現へ向けた論議の成熟の闘いである。
B施設・地域障害者と介護者の参加した行政との闘い
対市・県交渉で障害者・介護者組織化の成功と課題が挙げられる。2000年の県交渉は、山口県下で活動をしている障害者の全員を集め、介護者や県議をも集め会議室に入り切れないほどの多くの人数を勝ち取った。施設、地域を貫いた闘いとして一定の成果を挙げたと思う。
@障害者の『自立』の考え方の転換
現在、市営住宅に集団入居という形で決着が図られようとしている。ここに至るまでには、『自立』の考え方が大きく変わらざるを得なかった。それまで施設から出て一人暮らしをすることが『自立』とされていた。それを障害者が集団生活をし、入居者会議を開くことにより、解放運動を闘う意味において、互いを批判しあい、ルールを作るのである。70年代は、一人の障害者に数人の介護者が入り、生活が保たれていた。障害者と介護者との関係は、介護をはさんだ、主従関係のようなものが作り出されていた。これがどのようにして成立していたかといえば、障害者を差別するものは資本主義生産様式であるが、これに加担して存在するのが、「健全者」となっていた。この様な形で、成立した主従関係が一定の反戦・反差別運動で闘う学生の総括の中に、被差別大衆の結集を勝ち取れなかったために、70年の安保闘争の敗北があったという総括があったからである。事実、被差別大衆の結集は、社会を動かす原動力の一つとなりうること間違いない。しかし、障害者がこれに甘え、差別と闘うことがいかなることなのか、が追求されず、自分の要求を押し通すことが、自立解放運動とされた側面が大きい。この様な意味において、介護者も、健全者として、障害者解放運動が求められなければならなかった。そういう意味で、介護者の集団との会議は、必要であった(介護者会議)。さらに互いに会議をもつことにより、障害者の日常からの団結と介護者集団とのかかわりが、新しい形態を作り出した。障害者の『自立』の考え方の転換が、非常に長い時間がかかったのである。そこには施設生活の反抗から出てきた、全く反対の生活をすることを、追求し、健康管理や介護者との関係性、また解放運動の内容のチェックなどが、非常にしにくい状態にあった。これを解決したのが、入居者会議と介護者会議だったのである。
A具体的な要求項目の整理と、実際の要求
障害者がお互いの生活を気にしながら、共同生活を営むためには、いかなる物質的条件が必要であるかが、要求項目として出されなければならなかった。これも、紆余曲折を経ざるをえなかった。なぜなら、個人のプライベート空間は必要という意見を持ち出せば、70年代的『自立』の発想に戻りかねなく、かといって現在のような、個人の部屋が廊下になるようなものでも、落ち着いた生活は営みにくいものである。また運動的には、女性障害者の入居や、結婚生活などを考えていくとき、難しいものがある。そのバランスを、作りだすのが、入居者会議であった。自分たちがどのような生活をしたいのか、またそれが、障害者解放運動の拠点として、よいのか。次の障害者を迎え入れられるのか。などを論議してきた。またそのための家の設計は、70年代的『自立』の考え方を色濃く残し、自分の部屋の設計には、こだわるが、全体的な設計にはあまり興味を示さないということもあった。またこれとは別に、市営住宅で行くのか、民間で行くのかのブレが出てきた。自らが決定した方針に対し、自らが責任を負わなくなってきていたことも間違いない。(専従への甘え)しかし、4年にわたる行政との話し合いにより、現在「自立訓練室」も認めさせ、市営住宅の中に、実態的には、グループホームを勝ち取った。
B施設・地域障害者と介護者の参加した行政との闘い
山口県下の障害者の自立生活運動をしている障害者の結集を勝ち取り、施設との連携も果たし、行政交渉は行われた。しかし、課題として挙げられるのは、事務局全員がこれをわがものとして取り組めたかである。@で書いたとおり、なかなか集団で決定したことが徹底できない中で、施設の障害者へのオルグや、地域障害者のオルグは、容易ではない。
センターの総会基調では「自立の拠点」と記載されたり、障害者、介護者への学校と記載されたり、紆余曲折がある。その時々の記載の仕方は、その時々の事務局のブレを示している。一国一城の主になるための登竜門として位置づけるのか、新たな自立形態として位置づけるのか、また障害者を含む介護者とのコミュニティの形成を意味するのかによって、使われている言葉が違うように思われる。そこがはっきりしていないため、「アルゴの老朽化、立ち退きというところを、手伝っている」という、障害者の自立運動を取り組む障害者の仲間から誤解も生じさせてしまっている。施設から出る拠点としてのグループホームとしても、施設の障害者からはなかなかとらえにくくなっていたようである。我々が何を目指してきたのか、これから何を目指すのかについて、色々論議しなければならないが、このようにそのときそのときで、少しずつグループホームの位置づけが変わってきていたことを 真摯に総括しなければならない。今私が考えていることは、グループホームを拠点として、障害者、介護者のコミュニティ建設、新しい社会作りに向けた一歩としたい。 センターの14年のグループホーム闘争は、自立の考え方の転換と、要求の取りまとめ、その実現と、三期に渡って闘われた。こうした意味において、グループホームの実現は、解放運動にとって、大きな前進といえる。
2004年度グループホーム対市交渉の総括
◆2004年度グループホーム闘争の総括
この課題は6年闘ってきたが、最後の一年は、公営住宅の中に作るか民間にするかで方針がぶれた。2004年までは、グループホームを、公営住宅の中に建設することを要求していた。その理由として、
@大家さんの都合で住環境が劇的に変化することがない(例えば強制退去など)
A住居を失う可能性も含んだ当時の劣悪かつ不安定な住環境
Bそもそも民間で用件(集団生活の維持やバリアフリーなど)を満たす物件が借りられない状況下にあった。
C行政責任においてグループホームを建設してもらう
の4つである。ここでは方針のぶれた原因を総括し先々第二号、第三号を作る際に生かせればと思う。
2003年、夏の対市交渉後、福祉課の吉田さんが「グループホームの件ですが、とりあえず4件並んで住めればいいんですね?」と内々の話があった。その後、矢原市営住宅の中に障害者専用の住宅を建設する話が出てきている。ほとんど我々に合わせたような計画がいきなり浮上した。
しかし最初に3個作るという記事が先に山口新聞に載り、全員が入りきれないのでは、と焦ったのであった。それ以前の数回の交渉のとき「一件に一世帯というのは曲げられない」という発言が出ていたため、最低4件を確保しなければならないとおもいこんでいたのである。ここから迷走が始まったように思える。まずもって一件に一世帯という条件では入りきれず、一度に引っ越すことが不可能で、一人だけ民間なり、市営の別世帯なりを探さなければならなくなる。現在のアルゴの大家さんのアルゴに住んでいいという条件として、引っ越す場合は一片に、一人残らず出て行くことという約束もあったからである。
何より、恐れたのが、ようやく集団生活をすることで新しい障害者の団結形態を作りつつあった物が破壊されることであった。10年以上かかって作りかけて来たこの闘いは、障害者解放運動にとって大きな前進をしようとしていたからである。
これまでの交渉ではあくまでも公営(市営)住宅に新しいアルゴの建設を要望してきた。しかし2004年の3月31日の対市交渉では、市営住宅か民間で部屋が6個以上で20年間は居住できる物件を、市の責任において保障しろという要求項目の1つに挙がっている。これはあたかも民間でもよいという言い方である。
この交渉の後、事務局では、市営住宅を要求するための、民間探しか、はっきりさせきれないでいたように振り返る。結果的に、6月1日の交渉で、市営住宅の方を福祉課のほうが進めた。よほどこちらの要望をかなえるものでなければ、交渉の場で、市営を勧めはしないだろう、という判断し、交渉を終えた。グループホームの対し交渉全般に、言えることだが、最後にこの様なふらつきをせざるを得なかったのは、解放センターを認めてもらうのか、集団生活の場所の確保なのかが、混在していたのと、一連にみられるお互いの情報が錯綜していたからであろう。混在するのは、考えてみれば当然である。我々の運動が、生活と運動の境目がない。
生活支えることが自体が闘いである。
2005年の活動は、設計の打合せとなった。建設課も、交渉に参加してもらっていたため、話が早かった。実際には住宅に当たっていないものは話に、入れないが、常に5人が設計段階から入れた。建設課はもうすでに4人で住むことを想定していたようで話は早かった。こちらが設計図を描いたものに、「自立訓練室」というものに関しても、そのまま採用され、設計図となった。事務局会議で、どのような設計にするかを話し合ったが、上記のごとく全体の設計には、あまり関心が行かず、個人の部屋に執着する傾向が見られた。いかに全体のことを考えるかが、会議を作るうえで、重要となった。つい先日、最後の打合せには、新しく入居する
■活動方針(案)
グループホーム
グループホームであるが、今後、新居に移る。その作業がある。今のアルゴで、荷物を減らしながら、引越しの準備に当たる。
今までどおり、自立解放の拠点として、継続して運動を続けていく。施設の障害者の外出・外泊先、また学習の場として、利用していきたい。介護者も、アルゴに募り、障害者の生身の体験や、その理論付けから、差別社会(現代資本主義社会)の矛盾を、実感してもらい、共に闘う仲間として位置づけていきたい。
新住居に替わってから、祝勝パーティーなども企画できればと思う。この6年間の行政との闘いで、より密度の濃い付き合いとなった、皆さんと一緒に祝うものとしていきたい。(県議、市議を含めて。)さらに、行政からの援助金を勝ち取るかどうかも、検討する。
雑草
雑草については2年も発刊されておらず休刊とし、事務局通信の内容充実 (ページ数も含めて)ということで提案したい。その間介護者にも事務局通信の編集に関わってもらい解放運動の一部を担ってもらえるよう努力したい。会員の皆さんの意見交換を、密に、紙面にてしていければと考えている。介護者の立場、労働運動の立場、など、いろいろな立場から、障害者解放運動についての、意見を寄せていただければと考える。もちろん、センター事務局の動きについては、出来るだけわかりやすくするつもりでいます。編集委員会への参加をしていただき、紙面づくりを豊かにしていきたいと考える。
反戦運動
反戦運動については、11行動への定期的参加をしている。山口県内の反戦運動の一翼を担っている。また、今年6.19のAWC岩国行動・昨年、今年の8.6広島集会の参加は介護者も反戦運動に立ち上がった。障害者解放運動としての前進を勝ち取っている。
(11行動は、01年の9・11事件の後、10/8にアフガニスタン攻撃に抗議するため、山口市で始まったものです。毎月11日にキャンドルウォークと、戦争に対するリレートークをしています。10〜50人で歩いています。現在4年続いています。)
方針部分については グルーホーム(新アルゴ)を拠点とし施設との連絡を密にし、自立解放を進めて行きたい。
介護をめぐる問題について
障害者解放運動を進めていく上で必要不可欠な、介護を取り巻いている情勢の分析と現在解放センターで行われている介護について考察していく。その上で必要となるであろう介護委員会の再設立を目指したい。
キャンプ
昨年、実現できなかったキャンプを、やれればと考えています。今年の新歓は、
差別事件への抗議
宇部で起きたくるみ園の虐待事件に抗議文を送った。国会で審議されている障害者自立支援法についても同様に抗議文を送った。依然として、施設においても、地域においても障害者差別は蔓延し、小泉改革のもと、ますます強まってきている。今こそ、4本柱の1つの「差別糾弾の原則を貫いて闘うこと」が問われている。再度、4本柱を確認し、広範な大衆運動として、センター運動を組織していこう。
人事案
代表 藤井彰
会計 麻田法江
会計監査 山縣圭子
幹事会については、現在、そのありかたについても検討している。当分の間、休止したい。